親子であるということ
プチぎっくり腰もすっかり 良くなりました😊♫
ここ数日間、色々な(ステキな✨)事があり過ぎて、更新が滞っていました
こちらは もう少し熟成してから、大切に綴って行きたいと思います
今日 書いてみようかなーと思うのは、『親子』ということ
今日から7月ですが、先月の6月はこの『親子』ということを考えさせられる事象がたくさん起こりました
5歳の いたいけな女の子の虐待死
21歳の青年の新幹線での凶行
同じく21歳の元自衛官の青年の事件…
事件を起こした青年たちは、偶然にも年齢も同じですが、
「思春期の頃から親と別居していた」
という点が共通しています
実際、新幹線の方の青年の父親のコメントは、いくら事件を起こしたとは言え、実の親が息子のことを語っている(世間への謝罪・息子本人への言葉など)
『熱』が 全く感じられませんでした
また、富山の事件の若者は、事件直前に気に入らない仕事を指示した店長さんに対し、お相手が肋骨を折るほどの暴行を働いています
双方の事件から感じる共通するものは、
『たとえ親子であっても一緒に住めないと思ってしまうほどの事情があった』
ということを感じるのです(あくまで個人的に感じたことです)
『育てられないことで 失われてしまう命』
親の虐待によって 自らの命を落としてしまう
行き場のない心を どこにも受け止めてもらえず、命を奪う凶行に走ってしまう
親子だから 一緒に暮らす
親が 責任をもって 我が子を育てる
「でも無理!わたしには育てられない!」
が なかなか認められません
育てられない事情といえば、昔だったら婚外子とか 金銭苦とか ぐらいだったかもしれませんが、
今の時代の育てづらさは 多様化し、
もうそれから目を背けては ならないんだよ、という「気付かせ」の事件だったと思えてなりません
社会的にも 経済的にも安定しているように見える世帯をお持ちの人なら、
子どもをキチンと育てられるはず、という思い込みは 通じない 子育て事情があること
そうした 家庭に対して、責任を押し付けるのではなく、社会で育てる手を差し伸べること
具体的な仕組みだけでなく、そうした共通認識も大切です
『子どもは 親が育てる』
その呪縛を解き、社会全体で問い直す 時が来ているように感じます。